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【菊と刀】リードレポート
ああ、これはすごい本だった。読み終えての、率直な感想です。

何はともあれ、目次。ここで扱う『菊と刀』は、講談社学術文庫、訳:長谷川松治氏のものです。



第一章   研究課題――日本


第二章   戦争中の日本人


第三章   「各々其ノ所ヲ得」


第四章   明治維新


第五章   過去と世間に負目を負う者


第六章   万分の一の恩返し


第七章   「義理ほどつらいものはない」


第八章   汚名をすすぐ


第九章   人情の世界


第十章   徳のジレンマ


第十一章 修養


第十二章 子供は学ぶ


第十三章 降服後の日本人



いやぁ、目次だけで壮観ですねぇ。ちょっと全体的に見やすくしようとスペースを取ったら、逆に威圧感が。13という数字が並ぶと、その内一人ぐらいはアニメオリジナルのキャラが混じっていたりしてってあぁ、こんなこと書いてたらいつまで経っても終わらない。
もう、この文字面をざっと読み流して「うへぇ」となる方、「ほほぅ」となる方、なんとなくそのままスクロールしてここに来た方、様々でしょう。ご安心下さい。改めて見返して、これからこれまとめるのかぁと思うと、私も「うへぇ」です☆

本、こと教科書だの学術書だのってヤツは読んでいる時は分かった気になっても、後から思い返すと「あれ?」となり、実は身になってなかったりします。それは小説でさえ同じことで、久しぶりに本棚を眺めてみると、「これ、どんな話だったっけ」となることもしばしば。
それはそれで二度三度楽しめてオトク感もありますが、やっぱりちょっといただけない。そうしたことを避ける目的で読書日記を付けておられる方も多いと伺いますが、これはマジ、おススメです。私の場合は、その読書日記がこのスペースになります。

また、せっかくWeb上に公開するのですから、私だけでなくここを見てくださった人にも、何がしかのお持ち帰りをしていただきたいなぁなんて思ったりするわけです。具体的には、その本を読んでいなくても「あの本はさぁ」とうそぶける程度に。でも、うそぶいた時に深くツッコまれたりしても、責任……取れないよ?(誰だオマエ)

とまぁ、あまり関係も取りとめもないことを書きましたが、これからこの手の本のレビューを書いていく際の所信表明ってな具合に、ここに書いておこうと思いました。


それでは、菊と刀。
「第一級の日本人論」と銘打たれることの多いこの一冊ですが、結局のところ語っているのは、「60年も前の日本人」像です。「そんなものを知って、何になるの?」「俺たちは今を生きてるんだZE!」と思うのは最もなこと。

ではどんなことに意味があるのかというと、中学校の社会の先生あたりが言う、「歴史を知ることは、過去にあったのと同じ間違いをしないためなんだよ」なのかな。どっちかというと、「こんなヒトがいたんだスゲー」でもいいけれど。  参考

……って、菊と刀は別に歴史でもないのか。じゃあ「なんで日本人を知る必要があるの?」か。それなら答えられそうかも。『国家の品格』あたりに書いてあった、「グローバル化が進むのなら、まず知らなければならないのは自分の国だ」というのももっともな話。
でもどちらかといえば、

「日本人のいいところと悪いところを知って、いいところを伸ばし、悪いところをなくすため」

と、教育学部にその籍を置く「ボクはキレイな管理人」が言ってみる。
「なら、今の日本人論を読めばいいじゃない」。そうかもしれない。でも、「じゃあ、今の日本人(日本社会)がどうしてそうなってしまったのか」、ってことを考えなきゃいけないとも思う。で、「そうなってしまった理由を考えれば、いいところと悪いところの対処法も考えられるんじゃね」、みたいな。
そうなると、やっぱりこの辺、戦後復興前後をよく見てみることが大事だと思う。やっべぇ、また関係ないこと書いてるよ絶対長くなるよこれ。というわけで、とっとと各章について「だいたいこんなことを言っているよ」をモリモリまとめていきましょう。



第一章   研究課題――日本


「日本人、よく分かんないよね」

そんな書き出しで始まるルースベネディクトたん。歴史上類をみない優秀な文化人類学者に「たん」を付けたのは私が初めてなんじゃなかろうか。
色々書かれていますが、主な内容はこんな感じ。

「あいつら、言ってることと言ってること、やってることとやってることが違うんだよ」

期待させてくれる書き出しです。
そして、こう続けます。

「でもさ、戦争やってるんだから、『分かんねぇ』じゃ済まないよね。
 本土でドンパチやらなきゃ降伏してくれないのか、どうなのか。
 どんな宣伝をすれば最後の一人まで戦おうとする日本人の決意を弱められるのか。
 平和になったら、厳しい占領をしなければならないんだろうか。

 それを、これから日本人について研究したことを説明しながら、考えていく」


第二章   戦争中の日本人

「日本人ヤバい。国力とか戦力とか、物質で力計ってない。精神論だけで勝とうとしてるよ」

アメリカ軍は、戦争を始めたとき、銃の弾がなければ勝てないことを発見した。
これでは銃を持って行っても役に立たない。
アメリカの政治家たちはこの問題に立ち向かうべく、ひたすら物量の増大に力を注いだ。

一方日本は精神が肉体を凌駕した。

どこぞのコピペのような感じですが、まぁ概ねこんな。「しごき」や「乾布摩擦」、「武士は食わねど高楊枝」などに見られる、即物的科学的ではない独自の精神世界が、日本には形成されているよ、ということが書かれています。
続いて書かれているのは、「天皇陛下像」について。

「戦争に負けたドイツ人は、『責任はヒトラーにある』と言っている。
 しかし、日本人は『責任は天皇にない、戦争責任は内閣や軍の指導者が負うものだ』という。
 天皇には超宗教的な何かがある。尊崇の念は絶対であるようだ。

 これを、利用するべきかせざるべきか」


第三章   「各々其ノ所ヲ得」

三章で書かれているのは、題名の通り。日本人が「その人に応じたあるべき位置(生まれだとか、身分だとか、年齢だとかによって決められる、周りの人々が期待するような身の振り)を重視」するために、厳密な階層制度と礼儀作法を重んじる点を述べるところから始まります。
しかし重要なのはその点ではなく、「各階層に応じた責務が発生する」ことがその特徴である、と続く。

注目すべき点は、当時の日本にはノブレス・オブリージュ――身分の高くなるにしたがって責任の重くなること――の考えがあったのだなぁ、ということ。「格差はあってもいい」とする意見があった時には、大抵付きまとうこの考えですが、今の日本社会でこの考えが浸透しているかというと、そうでもない。ここに今の社会構造の矛盾が生じるわけです。
矛盾というのは、つまり、

「格差の上の連中が、下の人間のために何もしてくれない」

ということ。
逆に言えば、「上の人々」がしっかりと「俺たちに任せとけ」と責任を持って国を動かし、「下の人々」が安心して暮らせれば、これは一つの社会の形なわけです。中世から近代のヨーロッパなんてその最たるものですね。まぁ、歴史や今の世界を見渡してみれば、それがどういったことになるのかは一目瞭然なわけですが。

日本の階層制度は士農工商から始まっており、すっかりその形は円熟にあった。つまり、階級という差はあったものの、その階級の中には秩序と権利の保証があったことが、安定した社会を作り上げていたというわけです。
ド・トクヴィルの言葉を借りれば、

「真の尊厳とは、常に高すぎもせず、低すぎもしない、身分にちょうどふさわしい地位を占めることである。そしてこのことは、王侯であろうと、農民であろうと、何人にも可能な事柄である」

ということなのでしょう。


第四章   明治維新

ここは日本史の明治維新を詳しく、興味深く書かれている箇所。割愛。


第五章   過去と世間に負目を負う者

この辺りからが、本書の見所。少々引用が多くなりますが、ご容赦。


大から小にいたるまで、ある人の負っている債務のすべてを言い表す'obligation(義務)'に当たる言葉は"オン"〔恩〕である。――中略――この国で生まれ、こうして安楽に生活ができ、自分の身辺の大小さまざまの事柄が好都合にいっていることを喜ぶ時には、常に同時に、これらはすべてある一人の方から与えられた恵みであると考えないわけにはゆかない、と日本人は感じる。――中略――それは時代の異なるにしたがって、地頭、封建領主、将軍と変わってきた。今日ではそれが天皇になっている。しかし長上が誰であったかということよりも重大な意義をもっているのは、何世紀もの久しい間にわたって、「恩を忘れない」ということが日本人の習性の中で最高の地位を占めてきたという事実である。          (p124,125)

なるほど、うまいこと言ったもんだ。「恩に着せる」なんて、いかにも相手に義務を負わせている感じ。ベネディクトは、「日本人が潔く玉砕していったのは、この『無限の皇恩』を返済するためであった」と続けます。

「恩」は確かに日本らしい概念で、感謝の意を表することもあれば、恩を受けることそのものが負担になったりもする。人から何かをしてもらった時に、

「申し訳ない」
「すみません」
「かたじけない」(古いけどw)

と返す日本人の姿は、外国人から見れば、「なんで『ありがとう』じゃなくて謝るの?」と奇異に感じることでしょう。ここに、「恩」が単純な概念ではないことを、また「恥の文化」の複雑さを垣間見ることができると思います。


第六章   万分の一の恩返し

前章では「恩」について触れ、次はその「恩」をいかにして返すのか、というお話。


――債務に対する無限の返済は"義務"と呼ばれ、それに関して日本人は、「受けた恩の万分の一も返せない」、という。「義務」は、両親に対する恩返し、"コー"〔考〕と、天皇に対する恩返し、すなわち、"チュー"〔忠〕と、二種類の義務を一括した名称である。          (p146)

日本の中で何よりも重要であったのは、この二つの義務であったというのが、ベネディクトの見解。ちなみに、両者が衝突したバヤイに、優先されるのは忠の方。つまり、「忠」が何より大事だった価値観だったということです。

これがどういった意味を持つのかというと、明治の政治家たちに「彼らの精神的統一を成し遂げるために」利用されたと書かれています。
つまり、無条件に最高の徳である「忠」を、国民がそれまでの支配者層へ向けていたものをなくし、そのすべてを天皇に大して捧げるようにさせ、以後の執政者たちが政治を(もちろん様々なパラダイムを含め)やりやすくするため、ということです。

日本の皇統が、まさに「万世一系」であったことは、強みとなった。中国、西欧、どこの王位継承をみても、それらは結局のところ、実権がどこにあったかという指針であったに過ぎなかった。
それに対し、天皇家はそういった政争にかかわらず、かずかずの変遷の中で脈々とその系譜を連ねてきたことが相対的に見てもスゴイ、ということでした。(ちなみに、神裔説〔天皇家が神話(アマテラスとかあのへん)に始まる神話から連なっている血族であるという説〕はそれほどプッシュされなかったらしい)
これら一連のキャンペーンが、国民の心をがっしり掴んだ、と。しかし同時に、天皇それ自体に責任はなかったと記述しているようです。このあたりは、やっぱりうまいこと戦後の復興にネームバリューを利用したかったってことなんでしょうかね。


第七章   「義理ほどつらいものはない」

「義理と人情秤にかけりゃ、義理が勝つのがこの世の掟」とはD.C.の芳乃さくらの言ですが、「義理!」と聞いたら即座に「の妹!」と返してしまう私には、この章を解説するのはふさわしくないのかもしれません。(やかましいわ)

ベネディクトは義理を「契約関係の履行」と表現してますが、なかなかそっけない。義理堅さとは、日本において最も重きを置かれていた価値観だと考えている私には、この章は読んでいて一番楽しかったところ。


(日本の)人が「義理」を果たさなければならないのは、「もしそうしなければ、人びとから『義理を知らぬ人間』と呼ばれ、他人の前で恥をかくことになるからである」、という。「義理」にどうしても従わなければならないのは、世間の取り沙汰が恐ろしいからである。          (p174)

そう、日本を「恥の文化」と定義したその中で、最も重要なキーワードが「義理」。これは、後でまとめて書きます。


第八章   汚名をすすぐ

名に対する「義理」とは、自分の名声を汚さないようにする義務である。――中略――名に対する「義理」は、また、誹謗もしくは侮辱を取り除く行為を要求する。誹謗は自分の名誉に暗い影を落とすものであるから、どうしても取り除かなければならない。そのために名誉毀損者に対して復讐せねばならないこともあるし、自殺せねばならないこともある。――中略――日本人は、自分の名誉を傷つける事柄を、ただ簡単に顔をしかめるだけで放任してはおかない。          (p179)

国にとって敵に回して最も厄介なのは、「名誉の死」「生き恥を晒す」という概念を持つ国であったろうことは想像に難くないですが、それはさておき。

日本の「名に対する義理」は、一般に言われる「名誉観」と、ほぼその意味を同じくします。ただ、日本の「汚名」の場合、共通の概念には当てはまらないものがあります。
それは、昔の切腹、現代の自殺、――つまり、極端な自傷行為です。

日本人は、作業を「追い立てられる」環境で行うと、かえってその能率が落ちてしまうところがあります。まぁ、向いていないのでしょう。今はフィンランド型の教授法が認められつつありますが、結局のところ受験戦争というシステムが変わらなければどうにもならないのに、……まぁ、この辺は本筋から離れるので割愛。
(参考URL:http://sahf.fc2web.com/thesis/2002orbefore/goda.htm
(参考資料:『The Japanese Character and Morale』)


彼らの心情に従えば、自殺は、もし適当な方法によって行うならば、自分の汚名をすすぎ、私語の評判を回復する。アメリカ人は自殺を罪悪視しているからして、アメリカでは自殺は絶望への自暴自棄的な屈服にすぎないが、自殺をを尊敬する日本人の間では、それは明確な目的をもって行う立派な行為になりうる。ある場合には自殺が、名に対する「義理」からいって当然選ぶべき、最も立派な行動方針とされる。元旦に負債を返済できない債務者、なにかある不運な出来事の責任を引いて自殺する官吏、しょせん成就の見込みのない恋愛を心中によって成就する恋人、政府の対中国戦争遷延策に死をもって抗議する憂国の志士などはいずれも、試験に落第した少年や捕虜になることを避ける兵士と同じように、最後の暴力を自分自身に向けるのである。          (p205)

「自殺を尊敬する日本人」とはまた随分な言い草ですが、1990年代以降の日本の自殺の質が同じものかというと、これはまた別の問題。


第九章   人情の世界

日本人の生活全般に関して考察しているところ。


日本人はまた、自淫的享楽に対してもあまりやかましく言わない。日本人ほどこの目的のために用いるさまざまの道具を工夫した国民はほかにない。          (p229)

にワラタ。


第十章   徳のジレンマ


第十一章 修養


第十二章 子供は学ぶ


第十三章 降服後の日本人



ここからはまとめて。十章の徳のジレンマからは、四十七士(いわゆる忠臣蔵)を皮切りに、日本の文化について、この一冊の総まとめがででんと書かれています。
中でも重要視されているのが、やはり主題となった「罪の文化」「恥の文化」を言い換えた、「外在的的強制力」と「内在的強制力」の対比。最後は、この部分について触れておしまいにしようと思います。

唐突ですが、皆さん、「どうして人を殺してはいけないの?」という質問に対し、どう答えますか?


答えその一。「それは、悪いことだから。悪いことをすると、神さまが見ていて、死んだ後は地獄にいってしまうよ」

答えその二。「そんなことをしたら、君の居場所は無くなってしまうよ」


ちょっとざっくりしすぎましたが、その一が「罪の文化」、その二が「恥の文化」それぞれの考えを簡単に示してみました。
要するに、宗教にしろ権力にしろ、その発端は共同体の調和を保つためなわけです。言い方を変えると、いかにして道徳教育をなすか。

少々横道に逸れますが、仏教は主にこの「罪の文化」です。

仏教の思想は、輪廻転生がそのおおもとにあります。生き物は肉体が死ぬたびに、生前の行いによって六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のいずれかに属する生き物に魂が生まれ変わります。
注意しなければならないのは、その最上級の天道でさえ、輪廻の中にあるわけですから、「死」という苦しみから逃れられない。

じゃあ仏教は苦しいだけなのかYO! というとそうではなく、最大の目的は……まぁ宗派によって色々あるらしいのですが、この輪廻から抜け出すこと、つまり「悟り」を開き「解脱」し、仏になることにあるのです。

ここで、「あれ? 日本って結構昔っから仏教国じゃなかったっけ? じゃあ、日本は罪の文化になるんじゃないの?」と思われる方がいるかもしれません。

思い出していただきたいのが、ほら、あれですよ。8月の真ん中にある行事。……違う! コミケじゃないよ!
……そう、お盆です。

言うまでもなく、お盆は「盆の間だけ帰ってくるご先祖さまをお迎えする」のが、その意義です。
さぁ、ここでまた考えてみてください。これ、仏教の考えと、矛盾している箇所がありませんか?

――どうでしょう。気付きましたか? 正解は、

「仏教では死後魂が生まれ変わるのに、お盆ではその魂が帰ってくる」

生まれ変わって、別のところにあるはずの魂が、抜けてきちゃうことになるんですよ。もしくは、同時に二つ存在することになってしまう。
まぁ、このあたりのことから、私は「厳密には、日本は仏教国ではないのかな」とか思ってます。
そういったあらゆる「外」の文化を取り込んで、「日本」という形を作ってしまう――サラダボウルのようにあらゆる文化が混在してバランスを保っているのは、日本のいいところだと思いますけどね。


ちょっと脱線しちゃいましたが、上記の仏教の「生前の行い」のように、「罪の文化」は、神的な存在、もしくは理想的な自我を自分の内側に持っているため、各々が非行をしないようになります。

では逆に、恥の文化はというと、言ってしまえば「生きている人間のお互い同士が牽制し合う」文化です。
これも厳密にいえば、「各人が世間の批評に気を配ること」なので、少々視点が異なる気もしますが、まぁいいや。(えー)

で、ふと思ったんですけど、今の日本がおかしくなったのって、このあたりがうやむやになっちゃったからなんじゃないかなぁ。

要するに、日本人が悪いことをしなかったのは、お互いがお互いを尊敬しあってたからなんです。さっきは「牽制し合う」と表現しましたが、私はこっちの書き方の方が好きかも。
それが、(ハタチの自分が言うのもなんですが)ここ二十年来の、「わたしがよければ」「オレが得すれば」みたいな妙な個人主義の台頭によって、他人に対する指向性で結び付き保たれていた社会が、自分自身に対する指向性だけになって、ベクトルの向きが変わってしまった。

さきほど書いたように、日本の文化に「罪の意識」は根付いていません。これは良い悪いではなく、文化の特徴であることを履き違えてはいけないのですが、そんな中、「恥の文化」が効果を薄れさせてしまったのが、現状日本の最大の問題なのではないかと思いました。

個人主義に真っ先に走ったのは欧米ですが、それでもバランスを保てていたのは「罪の文化」という自戒する素地があったから。
共同体意識、もっと言えば運命共同体をその基盤としていた日本が、その共同体を軽んじ、その意識をあまりに性急に「個人」へとシフトさせてしまった。

では、どうすればいいのか。こんなネットの隅っこのロングテールサイトがいきがっていてなんかアレですが、そのことについてはまた今度書きたいと思います。


いやぁ、色々、ホントに色々考えさせられる本だった。資料的価値目的で手にとって、当初の目的を果たしてこれだけ考える糧にもなれば、もう言うことなし。すばらしい一冊でした。
by sakuragi_takashi | 2007-11-10 19:55
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