あまりに寝覚めが良すぎて、雛子は自分が今まで寝ていたことに気付けなかった。 突然の出来事に寝起きの頭がついてこない。巣の中しか知らない雛鳥が、いきなり巣から放り出されたようなもので、自分が今どこにいるのか、何をすればいいのか。 さっぱり分からなかった。 「…………」 起きたという感覚はなく、いつの間にか開いていた目を瞬かせると、その度ぱちりと音がしそうだった。夢と現実の境さえなかった。やけにはっきりと周りの景色が見えるような気がする。 身体を起こすとかかっていたタオルケットが音もなく胸から落ちたけど、気にせずくるりと周りに目をやる。畳。敷いていた長座布団。枕代わりになっていたクッション。しなくなってからしばらく経つけど、甘噛みするくせがあった自分を受け止めて、すっかりふちのゴムに歯型の付いてしまったテーブルがすぐ横に。 そのまま視線を上げると、壁にかかった振り子時計の、短い針が6、長い針は12を指していた。この間算数の授業でやったばかりだったので、すぐにそれが6時を意味しているのだと読み取った。 でも、どっちの6時なんだろう。窓から差し込む光は薄暗く、朝なのか、夕方なのかは分からなかった。 毎朝こんな風にぱっちり起きられればいいのに、なんてことを思っている自分がどこかのん気だなと思う。景色の中には含まれていなかった自分の姿を見下ろしてみる。いつも通りの格好で、寝巻きではなかった。何を着ているかが分かると、薄暗さの中に、どこか赤みのあることに気付いた。どうやら自分は昼寝をしすぎたみたいだった。 畳の目が跡になってしまった両膝を、どちらも平等に手でさすりながら、そういえば時計のかちこちという音以外、何の音も聞こえてこないことに気付いた。夕方の6時といえば、ママの携帯電話から夕ご飯の準備を始める合図の音楽が流れ始めるはずなのに。 その音楽は雛子が幼稚園の時に、音楽の好きな先生がよく口ずさんでいて、たまにホールにあるオルガンで弾いてくれることもあった。そんなときはみんなで一緒に歌うことが多かったから、自然と覚えていた歌詞は口をついて出てくる。その音楽が流れるまで、雛子はママのそばにいて――たまにママにくっつきながら――、じっと待つのだ。ママは夕ご飯の準備をしなくちゃいけないし、まだ小さい雛子はその邪魔をしてはいけない。 もう少ししたら、きっとママは手伝いを許してくれるはずだと思っている。 その音楽は雛子とママを引き離すものだったけど、音楽にあわせて歌を一緒に歌うことで、雛子はちょっとの間ママと離れる寂しさを、ママはその後に待つ食事の準備の手間をほんのちょっとだけ紛らすのだ。 でも、音はしない。時計の長い針の先は12から1に動き出しつつあった。ママの携帯電話の音がしない、ということは、ママの携帯電話がないということだろう。ママの携帯電話がないということは、 「ママ?」 ふと雛子はママに呼びかけた。でも、返ってくる音はない。かちこちかちこちと一緒に暮らしてるくせに時計はこちらのことなんかどうでもいいように自分の仕事だけをこなし続ける。でも、それだけ。音は頭の上からする時計が出所のものだけで、人の立てる音はしなかった。 誰もいないみたいだった。 「ママ、いないの?」 今度は少し声を大きくした。変わらない静寂だけが返答をよこした。 「お――」 慌てて雛子は口を噤む。その名は呼んではいけない気がした。なんだか背中がむずむずする。 なんでだろう、どうしてそんな気がしたのかは分からない。けれど、その名を口にする気はもうなくなっていた。 † † † 雛子はちょっとだけ誇らしげな気持ちで、自分と同じ高さを持つ、まだまだ新しいといえるキッチンの前に立っていた。 誰もいないなら、自分で夕ご飯を作るしかない。しばらく家の中を歩き回り、誰もいないことを確認して、それから行き着いた行動だった。 不安とか寂しさとか。そういうものは、ピカピカのシンクを前にするだけでなりを潜めたような気がした。 よし、やっちゃうんだから。横を見ると椅子に座らせたココちゃんがこちらを見ている。だいじょうぶ、さぁ、やっちゃえ! そんな風に勇気をくれているように見えて、とても心強かった。 見ててね、ココちゃん。おいしい夕ご飯を作っちゃうんだから! 「……ありり?」 キッチンの前に、お皿洗いの時に使う(ママはご飯作りの手伝いはダメというけど、片付けは手伝わせてくれた)台を引っ張って来たところまではよかった。エプロンもした。キレイに手も洗った。準備はばっちりだと思う。 けれど、肝心の料理はどうしたらいいのだろうか。 台所を見回しても、どこに何があるのか分からない。まだてっぺんまで手の届かない冷蔵庫まで、またよいしょ、よいしょと台を動かして、ひんやりとした空気が漂い出てくる中を見てみたけれど、どれが何に使えるのかは知らなかった。そもそも、自分は何を作ればいいのだろう。 最初に頭に浮かんだのは卵焼きだった。ママがお弁当に付けてくれる、時間がたってもふわふわしてて、口に入れただけで幸せになれる、甘い味付けのたまごやき。友達と交換こする時はみんなに大人気だった。 けど、「火だけは危ないから、絶対に触ってはいけない」と普段から念を押されていた。火の怖さは、冬休みに入るちょっと前の避難訓練の時、そして終業式の時にも火の後始末のことは何度も何度も注意されたし、怖いものだとも思っている。とても一人でどうにかしようとは思えない。 そこまで考えが及んだ時、思い出したようにくるる、とお腹が鳴った。 それと一緒に、あ、お腹の音が鳴っても、気にしてくれる大人はいないんだ――、そんなことに、今さら思いが至る。忘れていた寂しさが堰を切りそうになる。溢れそうになる。どうしようもなく不安で。悲しくて。涙が出そうになった。押し留めようとすればするほど水位は高くなる。限界を迎えたときの衝撃は大きくなる。けれど、押さえないわけにはいかない。 ――にならなくちゃいけないから。 大人に、ならなくちゃいけないから。 そうでないと、自分は。 一緒にいられない。 一番一緒にいたい人と。 涙の滲みかけた目をそのままに、ぐっ、とこらえる。喉から噴き上がろうとする何かを。背筋から上ってこようとする何かを。お腹から中に入り込んでこようとする何かを。全部、耐える。少しずつ波は遠のく。 その代わりに、つー、と一筋だけ、悪いものの塊が頬を伝う。 どうするか、考えなくっちゃ。できることを考えなくちゃ。 自然と、視線がコンロで止まる。――うん。やらないと。 冷蔵庫の前に置きっぱなしになっていた台の上にのぼる。ちょっとだけ屈んで、開けた冷蔵庫の扉をやり過ごす。顔を出して、サイドポケットの側を覗き込む。 あった。先ほど視界の端にとらえた気がした場所に、卵は確かに置いてあった。左手を冷蔵庫の内部にかけて、「わ!」 冷たい、と思った瞬間には、左手は何か汁気のあるものが入った器をひっくり返していた。ラップがしてあったから、中身は出ないで済んだみたいだったけど、水分がいくらか染み出してしまった。 慌てて器を元通りにすると、テーブルの上に置いてあったティッシュボックスからティッシュを抜き取り、こぼれてしまったところを拭き取る。あまりいいにおいではなかった。多分、パパかママの好きなものなのだろう。何枚かティッシュを重ねて拭いてから、軽く手を水で流す。 よし、もう一度。 今度は慎重に手を置く場所を見定めてから、左手をかける。台の上に置いた足は少しだけ背伸び。右手を伸ばす。身体を支えてのび切った左腕が震える。 卵に、指先が触れる。人差し指、中指、親指の三本で作った三角形の中に卵が収まる。――取れる、 そう思った瞬間、力の弱まった三角形からスッと卵が抜けた。いけない、と思った時には身体が動く。 自分のことながら早かったと思う。 左手を落下軌道上に滑り込ませ、見事に卵をキャッチ。取れた――が、当然支えを失った身体は体重をかけていた方に崩れる。台を蹴りだすかっこうになって、一瞬だけ横への落下感を味わってから、冷蔵庫にしたたかに背中を打ちつけた。ちょっと遅れて、お尻を打つ。 もう、踏んだり蹴ったりだった。いい加減涙が出そうだった。 けれど、優しく握った左手を、そっと開く。 そこには卵があった。自分一人で手に入れ、守り抜いた、その証の卵が。 さぁ、後は焼くだけ。 かき混ぜた卵を手に、コンロの前に立つ。十分に黄身と白身は混ざっている。ちょっとだけ殻が入っちゃったけど、ちょっとだ。 恐る恐る、右手をつまみに伸ばす。頭の中で、色々な人の言うことがよぎる。火事。ひもと。火は怖いから。気を付けなさい。大人と一緒に。絶対一人で触ってはいけない。 右手が、つまみに触れる。それで、震えはなくなったように見える。 そして、ゆっくりと、そのつまみを、 その時だった。 「がんばったね」 後ろから、そっと手を包み込むようにして押さえられた。 大きくて、温かくて、優しい手だった。大好きな、その手。 いつか、同じようなことがあったと思う。確か、急にママに電話がかかってきて、一人になって。あの時は食器を洗おうとして、収拾が付かなくなったところに、やっぱり今と同じように助けに来てくれた。 「偉いぞ、雛子」 兄は、助けに来てくれた。 嬉しかった。 けど。 なんでだろう―― どうしようもなく、悲しかった。 前と同じだった。自分は、ちっとも大人になれていない。 大人になんか、なれてない。 † † † 兄の用意してくれた夕ご飯を一緒に食べながら、兄の聞いてくることにぽつり、ぽつりと答える。あまり元気はない。でもお腹と舌は正直なもので、小皿に取り分けた分はすぐになくなった。 「じゃあ、気が付いたら一人で寝てたんだ?」 そうして雛子の返す答えは歯切れのよいものではなかったけど、その一つ一つに兄は一々考えを巡らせているようだった。 うん、と言葉少なに頷いたものの、じっとして何も言わない兄が気になって、「ママが用意してくれたお昼ご飯を食べたのは覚えてるの」と付け加える。 「その後は?」 「なんだか、ぼやーっとしてるの」 確かにびっくりするほど――おかしなほど寝覚めはよかった。おかげで、その前にあったこと全てが夢みたいだった。あわいのないスイッチ。切り替えられる世界。 ただ、ぼんやりとした影が脳裏をよぎる。人影、だろうか。泣き顔のような気もする。はっきりはしない。 「でも、夢なのかな。ヒナ、お昼寝し過ぎちゃったのかもしれないの。そしたら、一人になってたよ」 兄の言葉には、分からないことを聞いているというより、どちらかというと、隙間を埋めていくような響きがあった。まるで、知っている答えの確信を深めようとするかのように。 「ねぇ、おにいたま」 「うん?」 「ママは、どこに行っちゃったのかな」 怖くて、聞けなかった。聞くことが、怖かった。知らないと言われたらどうすればいいのだろうか。 でも、聞かなくちゃいけない。兄は知らないのかもしれない。でも、兄なら知っているんじゃないか、とも思った。 だから、聞く。 兄は、目の前の空間を見つめたまま、 「たぶん、分かる」 とだけ呟いた。 そして、視線を雛子にゆっくり向ける。 「雛子、眠くない?」 唐突な問いかけだった。意図をつかめないまま、「うん。いっぱい寝たもん」とだけ答える。普段は昼寝をちょっとしたぐらいでは、夜に眠気が来なくなることはない。でも、今日は不思議としばらくは眠くならない気がした。 「じゃあ、行こうか」 行く――出かける? こんな時間から? 気が付くと時計は10時を回っていた。いつもなら寝ている時間に眠くなっていないことと、そんな時間に外出しようと言う兄、両方に驚いた。 驚きつつも――そう、わくわくする自分がいることにも気付く。夜に悪いことをしているみたいで心が浮き立つ。普通じゃないことに興奮する。兄と一緒にいられる楽しさがわいてくる。 「おにいたま、どこに行くの?」 兄はニッと笑って、一言だけ答えた。 「夜のピクニック」 さすがに時刻には早すぎる。兄は、風呂に入れた雛子をベッドの中に押し込んで、寝なくてもいいから、身体だけでも休ませておくんだよ、と声をかけた。 一緒に寝ようとせがむ雛子にちょっと待ってて、と言い残す。 確かめたいことがあった。 雛子の寝ていたという和室に足を運ぶ。おかしなところはない。昔は自分もよくここで遊んだ。夜の暗がりが併せ持つ静けさは不意にわいてくる懐かしさを助長する。 兄は、ふとゴミ箱の中に目を留める。 ごみのてっぺんに、くしゃくしゃに丸められた紙。手に取り、広げる。 じっと、それを見つめた。 † † † 意識のない時間は短かったものの、その間に夢を見たと思う。揺り起こされた体と頭は、何を見たかまで覚えていることはなかった。 少しだけぼんやりしていたものの、眠気の芯のようなものは残っていない。覚醒状態はまだ続いているらしい。 ベッドサイドに置かれた時計を見る。時間は、ええと、3と3。短い方の3はちょっとだけずれている。3時……15分? こんな時間に起きていたことなど、今までなかった。初めての経験に、あっという間に全身に血が巡る。 時計に見入っているのを寝ぼけているのと見間違えたのだろうか、先に起き出していた兄は、ベッドの横から心配そうに「大丈夫?」と声を降らせる。 問題のないことを示そうと、雛子はベッドから跳ねるように起き出し、着替えを始める。ちょっと手に力が入らなかったけど、最後にお気に入りの靴下をはいて、立ち上がる。 さぁ、どこにだって行ってやろうじゃないか――この間見たアニメに出てきた海賊の船長の言葉が、今はぴったり合うような気がした。 さぁ、どこにだって行ってやろうじゃないか。目指すところに、俺たちの財宝はある。 外に出た途端、今が冬なのだということを思い知らされる。寒さは意外と怒りっぽいのかもしれない。忘れられていたことに腹を立て、自己主張するように身に凍み入ってくる。 家鍵をかけるために雛子の後から来た兄は、玄関で立ち止まる妹を追い越すように前に出る。一、二歩と先に出てから、左手をそっと差し出す。「行こう」雛子はその手をぎゅっと握った。 「うん」 夜のピクニック。兄の言った言葉に嘘はなかった。寒風が時折撫でるように抜けていく深夜。二人はひたすら歩いた。 普通なら、辛い道のりだったのかもしれない。雛子は年頃の子なみに暗がりが怖かったし、季節は冬で外出するのには適さない。何より、兄は未だに目的地を言わなかった。 でも、今の雛子は普通ではなかった。兄と過ごせる夜を楽しんでいた。歩けば歩くほど身体はあったまり、寒さは薄れていく。非日常を味わうことはすごく楽しくて、むしろ有り余る力を兄とのおしゃべりに注いだ。話したいことならたくさんある。本当ならいつも一緒にいて、その日あったことを聞いてもらいたい。感じていることを共有したい。 だって、雛子はおにいたまが大好きなのだから。 どれほど歩いただろうか。気が付けばかなりの間話して、またそれだけの距離を歩いたようだった。 ふと、会話と会話に生まれた間隙に滑り込むように、兄は、 「雛子はさ、大人になりたい?」 誰もいないのに、まるで二人だけの内緒話をするかのように、雛子だけに届く声で、そう聞いた。 答えは決まっている。 「うん。なりたいよ?」 だって、ならなくちゃいけないから。 一人でも大丈夫になりたいから。 兄といっしょにいたいから。 色々な思いの込もっていた、そのなりたいよ、という言葉に、 「そっか」 と、兄はちょっと見ただけでは、素っ気無くも感じる返しをした。 でも、なんとなく分かる。きっと兄は、それら全部を感じ取ってくれた。 「雛子は、大人になろうとしたんだよな」 そんな気がした。 コンロに火を付けようとした雛子を、兄はどんな風に見ていたのだろう。どんな風に見えたのだろう。知りたい気持ちと知りたくない気持ちが、どのくらいずつだろう。半分ずつのような気もするし、もっと極端な気もする。 嬉しくなっていた雛子をよそに、兄の言葉は、意外な続き方をした。 「今日、こうやって雛子を連れ出して、悪いことだって分かってるんだ」 え、と雛子は横を歩く兄を見上げる。頭をふる。 「そんなことないよ。ヒナ、すっごく楽しいよ」 「いや、こんな時間に雛子を連れて外に出たなんて、母さんに知られたら怖い以上に、いけないことなんだ。 でも、やらなきゃいけないとも思ってる。雛子に、見せたいものがあるんだ。 今、雛子は変わろうとしてる。変わることを望んでる。それを尊重したい。だから、見て欲しい。 でも、一人、逆に変わることをすごく怖がってるお姉ちゃんもいるんだ。そのお姉ちゃんにも、これから見せるものを一緒に見せてあげたい……ごめん、話、難しいかな」 「んー」 兄の言うことはわかる。わかると思う。けれど、まだわからない部分もある。そのわからない部分を、これから見せてくれる何かが、きっと埋めてくれるのだろう。 それは、どんなものなのだろうか。 「着いた」 いきなり、兄は足を止めた。 海、だった。 厳密に言うと、海沿いの道。歩くたびに減っていった街灯は、ここでは遠くに一本あるのが見えるだけだ。いつの間にこんなところまで来たんだろう、と雛子は驚く。 冬の夜の海は怖いぐらいに静かで、今は凪だった。ざざ、ざざ、と一定の間隔で波音が耳に届く。見た目よりも遠くから聞こえてくるような感じがした。 兄も同じ音に耳を澄ませているようだったが、不意に、視線を雛子の頭越し、少し遠くに向けた。 「来た」 「え?」 来た、とはどういうことだろう。兄の視線を追う。 身長が親指ほどの長さに見える距離に、誰かがいた。そういえば、今しがたした兄の話の中に、これから見せるものを一緒に見せたい姉がいる、とあった。そして、街灯がないにもかかわらず、そのぐらいの距離でも人影を確認できるほどの明るさのあることに、すぐそこに迫る朝を感じる。本当に、初めてのこと尽くしだ。 距離が縮まり、顔が見えるようになる。 「……衛ちゃん?」 「あにぃ、来たよ」 兄は、「おう、来たな」とだけ返した。衛と話す時の兄は、少しくだけた感じになる。なんだかそういうのも羨ましいな、と思う。 衛は一瞬雛子に目を向けると、何か言いたそうに口を開きかけたが、逡巡の後、結局口を閉じ、顔を逸らして兄に向き直った。その戸惑いの中で見せた唇の動きには、ゴメン、と言ったように読み取れないこともなかった。でも、なんでゴメンなんだろう。 「あにぃ、ここ、覚えてたんだね」 「……衛こそ、覚えてたのか」 「忘れるわけないよ」 二人はここまで来たことがあるのだろうか。 「おにいたま、衛ちゃんと来たことあるの?」 「うん。あそこ」 と兄は海岸の端を指差す。 「今は潮が引いてないから見えないけど、あっちの方まで行くと小島があるんだ。その小島の岩場が面白い形になってて、洞窟が出来てるみたいだった。そこまで探検に行ったりとか」 「えー! いいな、いいな! ヒナもそれ、見に行きたい!」 「今日は何の準備もしてないから行けないけど、また今度来た時に行こうな」 「それだけじゃないよ」 衛が言う。どこか苦しそうに。 「あの日の後に、ボクは一人で来たことがあるんだ。新しいマウンテンバイクに乗って。その時、またあにぃとここに来たいと思った」 雛子は、あることに気付く。 「だから、よく覚えてる」 そのことに気付くと、何も考えられない。聞こえない。ただ、目を奪われる。 「ねぇ、なんでここなの? あにぃはここで、何をするの。答えをくれるっていうから、ボクはここまで来たよ」 「どうすればいいか、教えて。でないとボクは、」 「衛ちゃん」 兄とつなぎっぱなしだった手を放し、衛の腕に飛びつく。 「ねぇ、空。すごい!」 世界は、白く輝きだしていた。 まだ朝日は見えない。それでも、視界の広い海辺の道から、見渡す限り一面、光が溢れそうだった。 知らなかった。朝の空気を。朝の気配を。そこには、生の実感が満ちていた。 「ヒナね」 雛子は、思うまま、言う。 「夜と朝にはスイッチがあると思ってたの。誰かがそれを、ヒナの寝てる間に押すの。そうするとね、夜がどっか行っちゃって、朝が来るの。そう思ってたの。だって、ヒナが寝ちゃうと、もういつも朝だったから。 でも違ったの! すごい、すごいよ! おにいたま、これを見せてくれようとしたんだ!」 振り返り、言う雛子に、兄は頷く。 「そう。雛子の言う通りだな。 スイッチなんて、ないんだ」 ゆっくりと、嬉しそうに続ける。 「いいんだよ。変わることも、変わらない部分も含めて。そういうものだよ。急がなくていい。ゆっくりでいいよ。少しずつ、変わればいい。見てるから。傍にいるから。ちょっとずつ、変わっていって、そのままの部分も、残していっていいから。それが、全部、衛だから」 衛は、手で顔を覆って、ひっく、ひっくと、まるで泣き虫のとりついてしまった時の雛子のように、ちょっとだけ、泣いた。 朝日が、昇る。朝日はいつも変わらない。でも、その照らす世界は、少しずつ、変わっていく。 兄が衛を抱き締めるのを見て、雛子は思う。自分はどうだろう。大人になるためのスイッチも、やっぱりないのだろうか。 思い出すことがある。昨日の夜の冷蔵庫と、それに挑む自分。 これから何度も、きっと冷蔵庫を開けるように、何かを見つけようとするのだろう。 その見つけたその何かを掴もうとして、足元から転げ落ちてしまうこともあるんだと思う。いや、見つけようとしただけで、器をひっくり返してしまうこともある。そして、そういうことの方が多いのだろう。 でも、それでも。転んだとしても。器をひっくり返したとしても。 手の中には、一つの卵が残るんだ。 そして、もう一人。
by sakuragi_takashi
| 2008-05-02 12:00
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