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対エスキモー戦争の前夜

 久しぶりのキスは、はじめてのキスだった。
 んー、んー……一度合わせた唇を少し離してから、二回、三回と縦に合わせ、横に角度を変えて、何度か口を吸い直してみる。年ごろの男の子にしては妙に色っぽく、艶やかな風味のする唇をもう一度舌で舐めとってから思うに、
(キス、気持ちいい)
 これはちょっとやばいいくらでもいけるどうしよう咲耶ちゃんごめん、正直すっごい気持ちいいです。も、もういっかい。自分のものではないようにじんじんする口にあてていた左手を、もう一度お兄ちゃんの顔の脇に付けたところで枕がしずんで「ん」と標的の表情が動くものだから慌てて両手を胸に引き寄せる。大丈夫、眠りは深い。今度は慎重に枕を避けたところに両手をつき、お兄ちゃんに覆いかぶさっていく。
 唇の先同士が触れただけで、体のどこを通ったのか、胸の芯までものすごい快感が走る。自分の頬が上気してくるのがわかった。スイッチが入るともう止まらなくて、今しがた慌てたこともすっかり忘れて、むさぼるようにお兄ちゃんの唇を求めはじめる。何度も何度も小さな音を立てながら口に吸い付く。
 たっぷり数分そうしていると、お兄ちゃんと触れ合う部分が唇だけなのがなんだかとてももどかしくなってきて、抱きしめるように上半身を重ねてしまう。両腕で胴体を挟むように、押し付ける先よりは柔らかい胸をぎゅっと密着させながらお兄ちゃんのにおいを胸いっぱいに吸い込んで、それからゆっくり吐いた息といっしょに全身から力が抜けていく。一度の深い吸い吐きのあとは思い出したように体が酸素を欲して、そしてそれ意外の要素も手伝って荒い周期で呼吸を繰り返す。お兄ちゃんとの間で、ふたり分の汗が混じる。体をいったん離すべきなのはわかるけれど、こんな愛しい体から今距離を置くことなんて到底無理だった。起きちゃうかなでも起きてもいいかなといよいよ自分でも頭が回らなくなってきているのがわかっていてもやめられない。あごから首すじにもう一度……じゃ、足りない……もう一往復……唇を這わせてから、ようやくこんなに好き勝手したのはさすがに小さい頃でもないなあと文字にできる思考ができた。


 †  †  †


 
 秋口のおわりに差しかかったころ、一度は引いた気温が戻ってきた週のあたま。強く夏のにおいが残る平日の昼をだいぶ過ぎたころ、なかなか進まない課題をひとまず休めて気分転換、自分の部屋から出て、階段を下りる。
 七段下りると、踊り場だ。体の向きをくるりと変えて、もう七段。
 びっくりした。ひっ、と引きつるように吸った息が吐こうとしていた息とぶつかる。目に入ってきたのは、階段を下りてすぐの玄関、上がりかまちに腰かけて、仰向けに倒れこむようにしている人影だった。でも、すぐに気づく。すぐに気づけることが、ちょっと誇らしく思える、人影。
「お兄ちゃん!」
 傍らに小さなバッグを投げ出したままだらしなく玄関先に寝そべって、力尽きたふうに「しばらくいるよ」と何を聞いてもいないのに自分勝手なことを話し出す兄の声は――懐かしくも優しく、耳に届いた。
 足早に駆け下り、最後の二段をちょっとはしたなく飛び降りると、
「ほんとにお兄ちゃんだ」
「良かったね、ぼくで」
 それからようやく気づいたように「あれ、可憐、なんで家にいるの」と首だけ振り向きながら「おかげで家に入れたけど」しれっと続ける不法侵入者に答える。
「今、インフルエンザが流行ってて」
「学級閉鎖?」
「うん。先週の終わりにはクラスの三分の一が休んじゃってて、残った半分もマスクをつけてるくらいなの。授業中も咳の音が止まなくて、先生方もちょっと嫌そうなお顔をしてました」
 眉の間にしわを寄せるお兄ちゃん。あまりしない表情だ。
「そんなにひどいんだ。可憐は? 大丈夫?」
「はい。すこし前にママに連れられて、花穂ちゃんと一緒に予防接種を受けたから」
「あ、鞠絵のとこに行く前か」
と、そこでようやく体を起こす。
「……すこし前って、どのくらい?」
「え? 今月……の、頭くらい……だったかな」
 あやふやに口ごもる可憐に、「じゃあ、あぶないじゃん」とお兄ちゃん。
「どういうことですか?」
「ワクチンを打ってから抗体ができるまでには、少し時間がかかるんだよ」
「少しって、どれくらい?」
「早くても二週間くらいだったと思う」
 知らなかった。知らず下がった視線の外からふと影が差すと、開いた目の上に温かい感触。温かくて、大きな手。
「ほんとにだいじょぶ?」
 兄の手。
「そう言われると、なんだか不安になっちゃうかも」
「笑顔じゃん。めちゃくちゃ」
「だって」
 お兄ちゃんが優しくしてくれるから。
 そっか。
 うん。おかえりなさい、お兄ちゃん。
 ただいま。

「何してるの、あなたたち」
「きゃっ」「んあ」
 いい感じに距離が縮まったところに帰ってきたのは、片手に近くのディスカウントストアの袋を下げ主婦然とした主婦オーラを身にまとったまるで近所の主婦みたいなママのような女性だった。
「可憐、あなた失礼なこと考えてない?」
「なんで?」
「嫌そうな視線をたっぷりくれたあとに今そっぽ向いたから」
「そんなことないですよ」
 さすが親子というべきか。でもママはお仕事をしているので、主婦というわけではない。それよりも、とママは続ける。「めずらしい顔」
「しばらくいるよ」とお兄ちゃんはさっきと同じことを繰り返す。ママはそう、と少し目を伏せて、そういうところ、パパそっくり、と笑うのだった。


 †  †  †


「『これが十月の陽気なら、いっそのこと八月になってもらいたいね、おれは』」
「なあに、それ?」
 お兄ちゃんは読んでいた本を振りながら、質問を質問で返す。「可憐の本じゃないの?」
 緑の背表紙は、この間借りてきたものだ。
「鞠絵ちゃんに借りてきたんですよ」
「ああ、鞠絵のか。どおりで。サリンジャーなんて、また読む幅広げたんだな」
「それはそうと、なんで可憐の部屋においておいた本をお兄ちゃんが持っているんですか?」
「鞠絵、前はコテコテの恋愛小説ばっかり読んでたんだ。それを小ばかにしてやったら、『じゃあ何かおすすめしてください』って言うから、ぼくの持ってた好きな作家教えたり、二人で図書館デートしたり。気がついたらぼくより幅は広がってるわ男同士で変なことする文庫が棚一つ埋めてるわで」
「……それ、可憐に教えたって言わないでくださいね……」
 恋愛小説が好きだってことを知られるだけでも恥ずかしがりそうなのに、この兄はあけすけに。質問には徹底的に答えないし。
「もう十月だってのに、暑いなあ」
「そうですね」
 右手で開いた本を団扇がわりに、左手は襟の緩んだTシャツの胸元をぱたぱたと。
 その開けた胸元を見て、どきりとする。昨晩の。
「お兄ちゃんは、暑いの、きらいですか?」
「うーん。暑くないにこしたことはないし、寒くないにこしたこともないよね」
「なんですか、それ」
 思わず笑ってしまう。じゃあさ、可憐は好きなの、暑いの。好きですよ。へえ、なんで。暑い時期になると、可憐の誕生日がもうすぐになって、お兄ちゃんが優しいから。じゃあ、今みたいに誕生日が過ぎたあとの暑さはどう。うーん……暑いだけならつらいけれど。
 ふらりとお兄ちゃんが帰ってきて五日目の夕方。生徒の欠席は学級に留まらず、兄弟、友人、部活動や委員会活動を媒介にして、学年、学校へと瞬く間に閉鎖の範囲は広がり、今週いっぱいは登校の必要がなくなりそうだった。可憐には一向に感染のきざしが現れることはなく、おかげでお兄ちゃんとのゆるやかで優しい日々を過ごしている。傾きかけた日差しはリビングに必要以上の明るさをもたらしていた。夜まで、まだ時間はある。
「好きなんです。夏の、特に夜の空気が。」
「ああ、わかるなあ」
 お兄ちゃんはあおぐ両手を止め、栞を挟んで本をテーブルの上に置く。
「昼の強い日差しいっぱいの中遊びまわるのも強い思い出にはなるんだ。でも今はそうそうはしゃがないからな。衛は違うだろうけど」
 笑って、置いた本の近くにあったリモコンをなんとなしに取り、テレビの電源を入れる。夕方の短いニュース。隠しきれなかった隈のうっすらと浮いた女子アナウンサの事務的な笑顔に替わって、画面はホオズキを映し出す。
「小さかった頃、夏の夜は怖かったです。家のすぐそこまで近づくほどあふれている、たくさんの生きてるものの物音がずっとやまなくて」
「虫は今のほうが怖がってるんじゃない」
「お兄ちゃんが来てくれて助かってますよ。夏と秋はおうちの中まで千客万来ですから」
 ぼくだって虫が好きとか得意ってわけじゃないんだけどな、とぼやくお兄ちゃんは、それから、あ、でも、とテレビに向かったままで言う。
「それも今週までみたいだね」
 サマーセーターにプリーツスカートを合わせた、画面映えのする気象予報士が告げる。夏の終わり。
 西日が差し込んでいるのは隣室だというのに、じりじりとした熱さに肌が汗ばむ。

 息子が家に戻ったからか、一家の長の帰りは一層定まらなくなっていた。夕食は二人で取り、その後も場所を同じくして、どうということもないことを時折話す。夜が更けて、一人が舟を漕ぎ始めると、その間に一人が脱衣所に消える。しばらく経つと寝間着に着替え戻ってきた一人が眠りの深くなり始めたもう一人を揺すり起こす。おやすみと声を掛け合い、目覚めた一人が今度は脱衣所に消え、もう一人も部屋から出て行く。階段をのぼる音だけがわずかに聞こえてきた。
 それから数時間。日が替わってしばらくしてから、そっと部屋を抜け出す。それほど気を使う必要はない。
 七段下りると、踊り場だ。体の向きを静かに変えて、もう七段。
 足音をしのばせ、そっと半開きになった引き戸の前に立つ。少しだけ耳をそばだててから、音を立てないように取っ手に手をかける。コト、と立て付けの歪みに引っかかる。動きを止めて息を呑んで、たっぷり一分はそのまま動けない。ゆるゆると息を吐き出し、今度はすっと十分な間隔に戸が開き切る。その合間に身体をすべり込ませる。
 暗がりに慣れた目で居間に目を通すと、誰も使わなくなった長座布団を敷いて、小さなクッションを二つ重ねて枕がわりに、物心付いた時からずっと使っているタオルケットを身体に巻き付けるようにして、お兄ちゃんはすうすう寝息を立てていた。自然に音を吸う畳に助けを借りて、一歩、また一歩、そばへ歩み寄る。
 かたわらに立っても見えるのは輪郭だけだ。すっと腰を下ろし顔と顔の距離が縮まると、仰向けになったお兄ちゃんの表情がようやく見て取れる。すこやかな寝顔はそのまま、可憐に対するそっけない知らん顔にも見えた。ゆったりした呼吸に、眠りは深そうだった。
 ぺたんとお尻をついて、正座を崩して女の子座り。しばらくお兄ちゃんと呼吸を同期させてから、熱いものにふれるようにおずおずと、投げ出されたお兄ちゃんの右手に自分の左手を重ねる。一瞬どちらの手が温かくてどちらの手が冷たいのかわからなくなって、お兄ちゃんの手のひらを人差し指でそっと撫でるとこちらの体温の高いことがやっとわかる。
 囁く。
(ねえ、お兄ちゃん)
(やっぱりここは涼しいですね。網戸からいい風が通って)
(今朝起こした時は、すこし喉の調子がおかしそうだったけれど)
 表情が緩むのがわかった。ほどけた自分の顔は、笑ったようにも見えるし、泣きそうにも見える。
(あのね)
(眠れないの)
(お部屋からね。お日様の出ている間にこもった熱気が、お部屋からね。ちっとも抜けないの)
(何度も何度も寝返りを打って、お布団の冷たいところを探すの。でも、その間にもあっつくなっちゃうんです)
(熱さが降ってきて、じわじわと嫌な汗をかくんです)
(そうなると、もう、眠気なんてどこかにいっちゃって、いつまでもいつまでもつらいだけなんです)
(眠れないの)
(眠れないの……)
 つらいよ、お兄ちゃん。
 そうしてまた。夏の夜の空気が、ねばつく夜気が、まどろみのぼやけた意識が、可憐を間違わせる。
 音もなく寄せ、重ねた唇は、そんなすべてを否定するように冷たいのだった。

 お兄ちゃんが家に帰ってきてから、毎晩、毎晩、こうして部屋にしのび込み、その唇をむさぼっている。それだけでとどまらないことも、ちょっとだけ、する。
 清廉ささえ孕んだ涼やかな口唇に、何度犯しても薄れない心地よい罪悪感を浸して、しばらくそのまま唇を重ねつづける。何もかもがそこに吸い込まれていくようだった。
 熱帯夜のどうしようもなさと、もうろうとした感覚に身を投げ出して、お兄ちゃんからたくさん奪って、自分ひとりが気持ちよさにつかって、つかった気持ちよさに水びたしになって、いろんなものがぐちゃぐちゃになってもその分すっきりした部分だけすくい上げてそのままお兄ちゃんの横でぐっすり朝まで眠るのだ。それはあまりにきたなくて、みじめで、むなしくて、どうしようもなく幸せだった。
 でも、それも、今週いっぱいだ。残暑は足あとを可憐の身にだけ刻んで消えていく。暑ささえなくなれば翌朝お兄ちゃんに示す口実も失われる。それに、……それに、お兄ちゃんも、いつまでもここにはいない。
 今が、ずっとならいいのに。
 あ、こぼれる。気づいたときには、涙が頬をすべり落ちている、もう。涙が。お兄ちゃんの頬で。落ちていた。音は立たない。震えて、だめ、だめなの。
 体の中心から、ざわっ、と嫌な感覚が這うように全身に広がる。でも頬にしずくを震わせて、まるで自分が泣いたあとのようにも見えていてもお兄ちゃんはちっとも反応せず、涙も拭わなかった。安堵の息をつく。そう、可憐の涙は、拭われなかった。
 ねえ、お兄ちゃん。
 可憐はお兄ちゃんのことが、好きです。ほんとうに、ほんとうに好きなんです。どうしようもないくらい、あなたのことが好きです。
 あなたは、可憐のことを、好き? ううん、きっとお兄ちゃんは好きだって言ってくれる。けれど、それはたぶん、可憐の言うのとは、違うんです。
 お兄ちゃんがすぐそばにいると心がさわぐの。はずむの。嬉しさもあるし、幸せもあるんです。それとは別にね、心臓が飛び跳ねるの。でも、どきどきしてても、あったかいんです。
 夏のねばつく空気が思考を鈍らせる。心をとらえて間違わせる。そうやって理由をつけて、自分の遣り場のない心に、従うふりをする。

 今だけは目を覚まさないでという気持ちと。
 この瞬間に目を開かれたなら何かが動き出すのにという切なさを半分ずつ。
 可憐はお兄ちゃんに、キスをする。
 たくさんたくさん口づけをして、何度もなんども口づけをして。耳をほおにこすりつけて、鼻を首すじになすって、抱きしめて。襟口や鎖骨にキスを続けながら、お兄ちゃんの手を取って可憐の胸に押し付けて、時折その指を口に含む。ふっ、ふぅっ、と荒くなる息というより声が漏れるのを抑えられない。新しく滲み出てきた汗をすり込みながら、またいだ太ももに身体をすり付ける。全身をお兄ちゃんに溺れさせながら、握りっぱなしのお兄ちゃんの右手をいちばん気持ちいいところに導き、触れて、ぐりっ、と最後のスイッチを入れる。
 一度大きく身をふるわせてから、しばらくの間、小刻みに、びくっ、びくっ、と痙攣するように全身が引きつった。それから、まだまだどこに触れても感電したような感覚は消えないものの、そのままお兄ちゃんに覆いかぶさる。
 重なった全身から、部屋に入る前よりよほど多い汗が噴き出しているのがわかる。けれど。
 それでも今夜は、眠れそうだった。






by sakuragi_takashi | 2009-12-25 20:00
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